小林知世「epiphany」オープニングトーク
2023年8月5日(土)16:00~17:30 @CAI03 
小林知世+樋泉綾子(札幌文化芸術交流センター SCARTS キュレーター)


「epiphany」で試みたこと

樋泉綾子(以下、樋泉)
こんにちは、樋泉と申します。CAI 03の佐野由美子さんからお声がけいただいて、今回この機会をいただきました。みなさんどうぞよろしくお願いいたします。今日はとても暑いですね...。暑いんですが、お話を始めていきましょう。時間が1時間半あるので、せっかくお越しいただいているみなさんからも、後半質問やコメントを受けながらお話しができるとよいなと思っています。こじんまりした会なので、ぜひお気軽にお声をかけていただけたらと思います。
私の小林さんの作品との出会いは、2021年にこのCAI03で「アパート」というタイトルのグループ展があって、そこで作品を拝見した時だったと思います。洗濯機の中に服が入っている場面を描いたわりと大きめな絵があって、その作品がすごく印象に残っているんです。「あ、洗濯機の中の、洗濯物だなぁ...」と(笑)​​​​​​​
《untitled》2021年 727×910mm ジェッソ、油彩、雲母、綿布、ミクストメディア
小林さんの絵は、卓上のこまごました物だとか、ベッドの上の枕だとか、お皿の上のパンやケーキだとか、日常の中の物が描かれているんですが、色が失われているというか、本来の色彩ではなくて、白だったりグレーだったり青っぽかったりという淡い色彩で描かれている。その白っぽい画面のなかに描かれているのは洗濯物なんだけど、「何か特別なものを見ている」という感じがその時すごくしたんですね。生活の中でのそのものの意味がなくなっているというか、何か「人ではないもの」がそれを見ている感じというか。自分たちの普段の視点とは違う視点でものを見ているというその感じがすごく印象に残っていました。
上野の森美術館が主催するVOCA展という若手の平面作家の登竜門的な展覧会があるんですが、昨年、その推薦委員の依頼が突然あって、どうしようかなと思っているときに、小林さんの絵のことを思い出しました。その当時自分が展示を見て回っている中で、とりわけ小林さんの作品が印象に残っていたので、推薦のお声がけをして、初めてお会いしてお話をすることができました。VOCA展のために、油彩とステイニングの大きな絵を2点制作されたんですよね
左 《untitled》2023年 227.3×144.5×4cm ペンキ、ジェッソ、油彩、パステル、綿布
右 《untitled》2023年 227.3×181.8×4cm アクリル、インク、墨、雲母、綿布
*「VOCA展2023 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─」(上野の森美術館)出品作品

会場のみなさんも感じていらっしゃるかもしれないですが、小林さんの作品は何かじわじわーっと滲み出てくるものがありますよね、絵の中から。たぶんそれは小林さん自身が感じているじわじわしたもの、自分のまわりの小さなものごとだとか、気配だとか、そういうものを作品化していて、それが絵からも出てきているということなんだと思います。それを、今度は小林さんの作品だけで構成される空間でじっくり感じてみたいなと思っていたので、今回個展をされると聞いてとても楽しみにしていました。
今回はこのCAI03の空間全体を使って展示されているんですが、佐野さんからもお話があったように、この個展のために小林さんが取り組まれたことがいくつかあるんですよね。まず、今回はこのCAIに通って制作をされていたと聞いていて、そのあたりからお伺いしてみたいと思うのですが、よろしいでしょうか。
 
小林知世(以下、小林)
私は普段なえぼのアートスタジオという共同スタジオで制作をしているんですが、それとあわせて7月中はほぼ毎日CAIに来て、こちらでも描くということをしていました。普段は窓の外から聞こえてくる断片的な会話を集めたものをモティーフに描いていたりしたので、 CAIという空間と自分との「同期」みたいなことをしたかったのと、歩いたり、自転車に乗ったりしてここに通っていたんですが、その道中で聞こえた音を描きたいという思いがありました。ここは上階が普通に住居になっているので、長い時間ここにいるとわかるんですが、時々水の音がするんですね。住んでいる方たちが水を使うとその音が流れてくるので、それが気になって、ここで描いてみようと思いました。  
個展「epiphany」展示風景 2023年 CAI 03
樋泉
ありがとうございます。今回はここで発表するということの意味合いを考えて制作されたんですね。私もこのCAIという場所には何度もお邪魔していますが、すごく特徴のあるこの空間が、小林さんの作品の雰囲気に思いのほか合っていると思いました。たとえばこの壁の表情だとか、さきほどのお話にあった水の流れる音だとか、いろんなディテールというか、ニュアンスがあって、予想外にそれがぴったりきていました。奥の暗い部屋の壁の雰囲気だとか、床のでこぼこした感じ、色の感じも、小林さんの作品を思わせるところがある。それがまず感想としてあります。今回の個展には「epiphany(エピファニー)」というタイトルがついていますが、その経緯や意味合いを伺えればと思います。
小林
「epiphany」というのは英語の単語なんですが、本質的な洞察をもたらす出会いとか、気づきとか、啓示という宗教用語でもあって、「あるできごとの中にその事柄や人の本質が姿を現す瞬間」という意味があります。私は展覧会や作品のタイトルを決めるのがいつも苦手で、決める時はすごく目を光らせて、暮らしの中に落ちていることを探したりして決めるんですが、今回は「epiphany」という言葉を見つけて、その意味を調べて展覧会のタイトルにしました。私の中では、第6感とか、勘を研ぎ澄ませるようなイメージがあって、一見関係のないことが連続して起きた時に、それが自分の中で意味のあることに思える感覚とか、そういうものがつながっていって、突然何かがわかったような、「やって来る」という感覚があって、それのことだと考えています。
同時に、その「勘」のようなものは、外からやって来るイメージがあると思うんですが、自分が普段から見ているものの蓄積がかたちになって現れるというところもあって、内と外の両方からやって来る、というようなことや、見ようとしているものしか見えない、ということについても考えていました。伝わるでしょうか...。
樋泉
ありがとうございます。今回小林さんは展示のハンドアウトにいろいろ言葉を書かれていますね。出会ったこと、感じたことを日記風に書いた短いテキストです。また、この空間には、例えば石だとか貝殻だとか、小林さんが集めた小さなものたちが展示されています。そういう日々の断片的なものを拾い集めている人、という印象があります。「ピタッとはまる」という言葉がテキストにもありましたが、そういうものの中から、急に「あ、これだ」と感じることが、さっきお話ししてくださった「epiphany」ということなんだと思います。それを作品化している。ここに展示されているドローイングなども日常の場面を書き溜めていっている、ということですよね。さきほど、「急に来るけど、内側から積み重なったものでもある」というお話がありましたが、日々の中の小さな小さな片が蓄積されて、やがて作品というかたちをとって現れてくるということなんだなと思ってお聞きしていました。

  ふたつの技法を行き来する

樋泉
日々何かを集めたり、メモしたりするということと、実際に「絵画作品をつくる」ということは小林さんの中で地続きなのだろうと思いつつ、それを「作品」にするときの技法、制作スタイルの話を聞いてみたいと思います。例えばこのお部屋にある油彩の作品と、奥の部屋のカーテンの絵のような滲み、ステイニングの技法と、大きく2つの制作のスタイルがあって、そのあたりを使い分ける意図や作品にするプロセスをちょっとお聞きしてみたいと思います。
小林
まずステイニングの方については、これは「滲み」を使って描く手法で、シーツなどに使われる綿布に、ほとんど水みたいに薄く溶いた絵具を重ねて描いているんですが、1日に1層くらいしか描けなくて、乾いてからまた重ねて描くんです。かなり何層も重ねないと色が出てこないんです。なんというか、毎日描いていってだんだんかたちになってくるもので、絵具が自分の意志とは反する滲み方をしたりする、そういう要素があります。
油絵の方は、自分が見た光景の断片とか、聞いたものとか、瞬間を切り取って描いて、それをいくつか集めるという感じにしています。油絵の方がダイレクトに自分が筆を動かした通りに描けて、緊張すると手が震えたりすると思うんですが、そういう生体的な震えが直接残っていく感じがあって、その両方を同時にして、チューニングをし続けるみたいなことがすごく私にとっては大切で、この2つの技法を使って描いています。
樋泉
複数の絵を並べて、2つの技法を同時に使って制作するんでしたよね?今「チューニング」とおっしゃいましたが、それがどういうことかもう少し聞いてもいいですか?
小林
難しいんですが、「違う視点」を持ち続けるみたいなことなのかな。
樋泉
どこかに意識を合わせるということでしょうか。油の方を描いている時はどこに注目していますか?
小林
油を描いている時は自分の体と絵の関係みたいなところがすごく気になっています。
樋泉
一方で、ステイニングの場合は、さきほどお話があったように、色がほとんどない状態のものを何度も塗り重ねていくので、自分の行為が即反映されないというか、時間がかかったり、見えてくるものがわからなかったり、自分ではコントロールできない。2つの技法でそれぞれ違ったイメージの現れ方、体や意識の使い方がある。そのことで何かバランスがとれるということでしょうか。
小林
そうですね。

描くことと、「やりとり」すること
樋泉
今日ひとつお聞きしてみたかったのは、小林さんがそうやって絵を描いているプロセスと、毎日生活しているということ、つまり作品を制作することと生きていることが同じ意味を持っているという感じがするということなんです。
今回の展覧会で小林さんはご自身のお祖母様の絵を写すということに取り組まれているんですが、誰かと一緒に生きていく、誰かとコミュニケートしてやっていくということと、絵を描くということが小林さんの中ではそんなに離れないであるんだなと思ったんですね。ここで、お祖母様の絵のお話をお聞きしてもよいでしょうか。そちらのお部屋にある果物の絵のことなど
《untitled》2023年 116.8×91cm アクリル、インク、墨、雲母、綿布

小林
私の祖母はデイサービスに通ってそこで絵を描いていたんですが、この作品はそれを見ながら模写をするような感じで、CAIで描いたものです。もともと絵を描くのが好きな人で、私も小さい頃から一緒に絵を描いたりしていました。
今はもう施設に入所していているんですが、認知症が進む中で家族との関係が変わってきて、おばあちゃんの本当の姿がわからなくなったりすることがあったんです。一緒に絵を描いたり絵をなぞったりする中で、おばあちゃんの世界の見え方が今までとはちょっと変わっているなと感じる瞬間があって。一緒に絵を描いていると、途中で「あれ?何を描いてたんだっけ?」とわからなくなっていたり、空間の認知の仕方が変わっていることを絵の構図を見ていて感じたり...。一緒にお話をしながら描くんですけど、途中で私が孫だということがわからなくなって、「自分の娘だったっけ?親戚?友達?」と、時間を移動しているような感じで。一緒に過ごしたり、おばあちゃんの絵の線をなぞったりということを毎日やっていたので、そういうことがわかることがあって、普通の一方向に流れている時間とは別の感じ方があることをちょっとだけ理解できる、そういう瞬間を辿りながら制作をしていました。
樋泉
以前、映画「ファーザー」のお話をされていたじゃないですか。私も観たんです。アンソニー・ホプキンスが演じる主人公が認知症になってしまって、実の娘や、娘の夫や、ケアしてくれる人のことがわからなくなっていくんですよね。主人公はすごく知的で教養のある、お洒落で品のいい老人なんですが、彼の視点では、まわりの人物が違う立場や関係性でシームレスに入れ替わり立ち替わり現れてくるので、「こんなふうに混乱しているんだ」というインパクトがあって、ショッキングな映画でした。
小林さんのおばあちゃんの目にどんなふうに空間や他者が映っているのかというのは、外からは見えないので、さきほどご家族のお話もされていましたが、自分と違う認知の仕方をしている人に対して、自分がそれを理解できないために苛立ってしまったり、うまく付き合えないということは起こり得ると思うんです。
小林さんの場合は、絵を描くことを通しておばあちゃんが見た世界を追体験するという方法を見つけた、それはつまりおばあちゃんと小林さんのコミュニケーションのひとつの方法だと思うんですが、他の作品についても、小林さん自身が見ているものとの付き合い方が描かれているように思います。最初に洗濯物の絵のお話をしたんですが、「世界には別の見え方がある」ということを小林さんは絵を通して確認しているというか。
話がちょっと逸れますが、今回の展示の中に布団の一部を描いている絵がありますよね。布団って、さして「布団だなぁ」と意識するようなこともなく、毎日目にするものだと思うんですが、その一部を切り取って描くことで、スケール感もよくわからなくなって、布団が山のように、風景のように見えたりする。ものに対するフォーカスが動くというか、普段の生活の視点からスイッチして別の見方をするという実践を、絵を通してしているのかなと思ったんです。私が今言ってること、合ってますか...?
小林
はい、合ってます。
樋泉
でも一方で、それは「自分のこと」だとも思うんです。小林さんにとって「絵を描く」ということがどういうことなのかということを、ちょっと大きな質問になってしまうんですが、今日は聞きたいなと思っていました。
小林
今おっしゃっていただいたように、違う視点になろうとする、その試みをずっと続けているというのはあって、たまたま私には「絵」という方法がよかったんだと感じています。
 
樋泉 

もう少し聞くと、もちろん、小林さんの作品を良いと思う人たちがいて、私もその一人ですし、きっと今日来ている方たちもそうだと思うんですが、「絵」になっているから受け取れるものや体験というものが見る人にとってある一方、小林さん自身は、「絵を描く」というプロセスと「絵を作品として見せる」ということとの関係についてはどんなふうに考えているのかなと。
小林
私にはけっこうプロセスが大事なんだなということが、最近やっとわかってきたところがあります。作品を描いている最中に、自分の体と絵の間を行き来する、そのこと自体が大事というか。うまく言えないんですが...。完成した状態にするということについては、いろいろ見た断片を集めていくように絵を描いて、それをひとつの空間に並べた時にわかることもあるような気がしていて。こう見えていたんだ、みたいな。単語がいくつか集まって文ができるみたいな感じで。完成した作品を展示するというのはそういうことかなと思っています。
樋泉
断片を集めて見せることで、なんて言ったらいいんでしょう、まとまり、のような...?
小林
ムードというか空気感のようなものが見えてきて、それが何だったのかを自分で確認するような...。
樋泉
今回はどうですか?展示はできあがったばかりですが。
小林
おばあちゃんとのことは、今までずっとやりたかったけどできなかったというのがあって。おばあちゃんの場合は人同士だからわかりやすいところがあるけど、他のモティーフに関しても同じことをしていたんだなと。「やりとり」というか。自分と、絵と、描く対象の間のやりとりみたいなものは同じだったんだなと思ったりしました。展示全体がどうかというのは私もつかめていないのですが。

「音」を描く、「空気」を描く
樋泉
それからもうひとつ、いつも文字のようなものが画面の中に描かれていますね。今イランのお友達から文字を習っているそうですが、その話にもふれておきましょうか。
小林いろんな絵に文字のようなものが出てくるんですけど、学生時代に緘黙といううまく言葉が出なくなる症状が出て、その時に周りの「音」を言葉に限らずメモしていくということを始めたんです。最初は街行く人の会話の断片みたいなものを集めて絵に描いてみたり。イランの人とのやりとりは、「桜桃の味」という好きなイラン映画があって、それをタトゥーの図案に入れたいと思ったのがきっかけなんですが、ペルシャ語って私にとっては見たことのない形をしていて、自分でちゃんと書けるようになってから図案にしたいなと思って。言語学習のアプリでイランのペルシャ語が書ける人と友達になって、それがちょうど1年くらい前のことです。その人が、活字だとぜんぜん書き順がわからないので、文字の書き方を撮影した動画を送ってくれたりして、それを見ながら書いたりしてたんです。やっぱり手書きの線ってその人の体で描いている形なので、その人には会えないんですけど、その人の雰囲気を感じたり、その人がいるという感じがしたりして、それがあってなぞってまた描くということをしていました。​​​​​​​
《煙、越冬する蝶》(部分)2023年 145.5×227.3 木枠、綿布、ジェッソ、油彩
樋泉
見ている人はその字のようなものを読めなくて、意味もわからないんですよね。音の雰囲気を文字で表記しているという感じでしょうか。
小林
街で聞こえる音は特にそうなんですけど、単語だけで意味がなかったりとか、日本語じゃなくてわからないけど、音の雰囲気とか、風の音や環境音のようなものもけっこう書いていて、それは地震計の針じゃないですけど、音の振動の感じを書いているので、「読む」というよりは、音のニュアンスに着目して書いています。
樋泉
そうするとますます絵が謎めいていくんですよね。描いているものの形はわかるし、日常の中にあるものなんだけど、固有の色や文脈を失って何か未知のものに見えてきたり、さらには「音」が描かれていて、それは文字のようでありながら、読めない...。絵から何かしらの意味を読み取るというより「謎」として絵があるというか。そこが魅力でもあるんですが。さっきの質問に戻ると、小林さんは自分の作品はこう見られたいとか、作品を通して何かを伝えたいというようなことは考えますか?
小林
文字のようなものがあると人は読もうとすると思うんですけど、でも絶対読めない、そのわからなさをわりと大事にしたいというか。わからないけど持ってる、みたいな。これは何だったんだろうって、結果がすぐ返ってこなくても、自分の中にそれがしばらく留まっているみたいなことってすごく大事なんじゃないかなって、そういうことは考えています。モティーフについても同じ感じかもしれない。
樋泉
なるほど。今の小林さんにとって、自分の身の回りの存在とコミュニケートする方法のひとつとして絵を描があるんだと思いますが、そもそも絵を描き始めた理由だとか、今のスタイルに辿り着くまでのきっかけだとか、絵というものとの最初との出会い、のようなことをお聞きしてもよいですか。
 小林
文字については、さきほどお話ししたように上手く喋れないことがきっかけでモティーフに使うようになったんですけど、絵は本当に物心ついた時から好きで描いていて、気づいたら描き始めていたという感じでした。
樋泉
何を描いていたんですか?
小林
その時も音楽にあわせて謎の線を描いたり、好きな食べ物を描いたり、「何描いてほしい?」って周りの大人に聞いてそれを描いたりとか。あと地面にパステルを擦り付けてフロッタージュみたいなことをするのにはまっていたり。手を動かすということは本当に小さい時から好きでした。
樋泉
自然にやっていたことなんですね。明確に「作品」として絵画をつくろうとした時に最初にやったのはどんなことだったんですか?
小林
高校が美術の高校だったので、油絵はすごく身近にあって、その頃から「気配」みたいなものをモティーフにしていましたね。気配を感じた時の光景を描いてみたりしていました。
 
樋泉
関心があることは初めからあまり変わっていないんですね。音だったり、気配だったり。それはつまり目に見えないものを目に見えるようにすることとも言えるでしょうか。
小林
具体的なモティーフを描いていても、そこにあった空気感を描きたい、みたいなことはずっとあったかもしれないです。

会場から
 樋泉
ありがとうございます。ここまで私の方でいろいろお聞きしてきたのですが、せっかくなので、会場にいらっしゃるみなさんからもご質問やご感想など伺ってみたいと思います。今日のお話を受けていかがでしょうか?
Aさん
小林さんはいい意味で「観察者」というか、昆虫研究のファーブルみたいなところがあるんじゃないかと思いました。いろんなものを静かに見て、観察している。作品は全体に淡い、おぼろげな感じなんですが、モティーフがはっきりしていて、崩れているようで崩れていない、そういう感想を持ちました。
樋泉
ありがとうございます。今「観察者」とおっしゃっていただきましたが、確かにそうですね。他にご質問のある方はいらっしゃいますか?
Bさん
ふたつ質問します。小林さんのテキストに「自分が見聞きした、感じたいくつかの場面を組み合わせたり重ねたりして、サンプリングするように油彩を描いています」とあるのですが、この「サンプリング」とはどういう意味ですか?
小林
描く時にモティーフを絵の中でどうサンプリングするかということなんです。
Bさん
別の言葉で言い換えてみてほしいんです。音楽にもサンプリングはありますが、絵のサンプリングというのはどういうことになるのか。
小林
私の場合は、自分が見た風景や音を集めて1枚の絵に入れてみたり、絵と絵を組み合わせて、別の場所にあったものを組み合わせることで出てくる色とか雰囲気とか...。
Bさん
自分が描いている行為の中で出てくる形象と自分が対話している、というような意味で捉えてよいですか?
小林
おばあちゃんの絵を描いているときは、最初はおばあちゃんの絵を模写しているんですけど、おばあちゃんの絵と私の関係があって、それをこっちに写すことで、別の関係が混ざって、別の線が出てきたりするんです。
Bさん
その「混ざる」ことをサンプリングと呼んでいる、それを試しているということでしょうか?
小林
はい。試しています。
Bさん
もうひとつは、作品の色は淡く、白っぽくはあるのですが、ステイニングの場合、一種「加色」ではあると思うんです。作家として、それをどこで「止める」と決めているのか、お聞きしたいです。
小林
描き終わり、ということでしょうか?どこで作品が「完成」になるのか。
Bさん
はい、どういう思考回路でそれを止めているのか、というか。
 
小林
終わり時はいつも自分でも見失いがちなんです。ただそれこそ自分と絵の関係があって、身体的な絵との接続が切れちゃった時というか。絵のここに絵具をおいてほしい、ということが絵との関係の中であって、それを描いたら「あ、なんか終わった」みたいな感じがします。
Bさん
絵が語ってくるみたいな感じがするのでしょうか?
小林
そういうふうに言うとかっこいいですけど(笑)、そうですね。わりと感覚的なところに頼って絵の完成を見つけていると思います。
樋泉
今のお答えの中で、絵と自分との身体的な接続が切れてしまうという言葉があったんですが、それはどういう感覚ですか?
 小林
例えば、日中は他に仕事をしたりしているんですが、それによって絵を描く時の気持ちとそうじゃない時の気持ちがあまりに離れ過ぎてしまうと、戻って来れない、ということがあるんです。でもすごく描ける時は、一度離れても絵の前に立てば、絵の具の乾き具合とか筆の柔らかさとかが、自分の肌のような感覚でわかるというか。それのパーセンテージというか。すごい抽象的な話なんですが...。
樋泉なるほど。もう潮時だな...みたいな感じがわかるということでしょうか。それで言うと、作品の完成のイメージというのは明確にはないということになりますか?例えば今回展示されている大きな絵では、灰皿があって、煙が出ていて、大きな丸いレンズがあり、蝶々がいて...別々の場所で目にしたものをサンプリングして、同じ画面の中に配置しています。「星座」という言葉を使われていたと思うんですが、別々の場所で別々の時間に出会ったものをひとつの配置にするということですよね。そこでもスケール感とか距離感がわからなくなっていくんですが、そういうイメージをつくるということは、どこまで最初に設計されているのでしょうか。​​​​​​​
《煙、越冬する蝶》 2023年 145.5×227.3cm 木枠、綿布、ジェッソ、油彩

小林
ある程度構図などは考えていて、小さくスケッチしてみたり、パソコン上で何かやってみたりするんですけど、やっぱりそれって小さかったり画材も違ったりするので、参照はするけれど実際描く上でのとっかかりでしかないところがあって。なので下図の再現というよりは、やっぱりこの大きさの画面と絵具と自分とのやりとりのなかで作品ができてきて、何を描くかは最初にだいたい決めていても、途中からやっぱり何か違うなとなって、モティーフを変えたり、足したりしながら進めています。
樋泉
ありがとうございます。他にご質問のある方はいらっしゃいますか?
Cさん
ステートメントを読ませていただいて、制作中は複数のキャンヴァスを並べて、異なる手法の絵画を同時に進めると書かれていたんですが、並べた作品と作品の間でも干渉し合うようなことがあるのかなと思いました。
小林
ありがとうございます。絵同士の干渉というのはあって、物理的に絵の具が飛んだりということもあるんですが、身体的な動きによって、違う絵も同期していったりということがあります。あとは、油絵だと筆致がダイレクトに残っていくし、ステイニングだと滲んで広がっていくので、現れ方は違うんですが、描こうとしていることは結局一緒というようなところもあって。それはやっぱり同時期に制作している同じ作品群の中のパーツとして干渉し合っているんだと思っています。

Dさん
それに関連するかもしれませんが、ひとつひとつの作品をバーっと並べてつくっている時に、モティーフや制作プロセスがそれぞれあると思うんです。この作品を描く、となった時に、敢えて自分のムードをそこに寄せていくみたいなことはあるんですか?

小林
それはあまりないかもしれないです。そうすると描けなくなっちゃうところがあって、すごくたくさん描いて、展示する時に間引くということが多くて。途中まで描いて違うなとなってやめてしまったりとか。なので寄せていくというよりは、今はこれは違ったんだな、と手離すことの方が多いかもしれないです。

Dさん
ではここで並んでいる作品たちは、ほぼ同時期に一緒に生まれてきた存在という感じでしょうか?別々に分けているというよりは。
小林
そうですね。別の時期に描いてもまたつながった、というようなものもあったりします。
樋泉
他にはいかがでしょうか。では、CAIの佐野さん、いかがですか?
佐野由美子(以下、佐野)
え、油断してました…!
樋泉
急にすみません(笑)。質問じゃなくてもいいんですが、ずっと近くで制作をご覧になっていたので、「あれってどうなの?」ということもありそうな気がして。
小林
私たち人前で喋るのが苦手で、始まる前も二人で震えていたんです...(笑)
Dさん
佐野さんが考えている間にもうひとつだけよいですか?僕は絵画についてはあまり分からないんですが、ステイニングと油絵の技法が作品の中に混在していることもあるんですか?それとも完全に分かれている?
小林
そこは分かれています。油絵は描いたら絵の具がそこにバチっと留まるんですが、ステイニングの方は「水」だと思っていただけるとわかりやすくて、シーツを洗濯したら水がバーっと広がるみたいな感じで、絵の具が広がっていってしまうので、混在はできないんです。
Dさん
素人考えだと、ステイニングした上に油絵で描いたりということもできるのかなと思ったんですが、そういうわけではないんですね。
小林
実は奥の階段のところにある小さな絵は、ステイニングに油を重ねてみているんです。ただ綿布と油絵具の相性が物理的にあまり良くないようで、変色や酸化が起きてしまうので、そういう意味でもあまりやらないです。
Eさん
今回の作品の一部は、7月の1ヶ月間こちらに通って制作されたということだったんですが、そのように期間が決まっている場合、最終的に納得がいく、自信がある作品になっているのでしょうか?時間が足りなかった...とか、いろいろあるのかなと。
小林
ステイニングの方は絵具のコントロールができないということもあって、締め切りが作品の完成になってしまうこともあるんですが、今回は7月に毎日来て描こうと決めていたので、画面の完成度というよりは体験、プロセスとしての充実感がすごくあったので、満足しています。
ひとつすごく嬉しかったことがあって、おばあちゃんの描いた絵を毎日観ながら模写をしていたんですが、何が描いてあるかわからないで写していたんですね。それがある日の夜、CAIに来たら、2軒くらい隣のおうちで大きな百合が咲いていて、すごい匂いがして...。暗い中にパッとあるその百合を、ああ綺麗だな、と思ってここに来て、いつも通り絵の続きを描いていたんですが、おばあちゃんが途中で描くのを止めたような線があって、それが百合だったっていうのがその日にわかったんです。それが自分の中ではすごくインパクトのあるできごとだったんです。何だかわからないで毎日描いてたけど、百合だったんだ...!っていう。そういう体験もあって、やってよかったなと自分の中での充実感を感じることができました。
Fさん
小林さんは、自分の周りから聞こえてくる音とか環境とかを常に感知しながら作品を描かれてると思うんですが、例えばポートランドに行かれた時とか、そういう環境自体をガラッと変えるようなことって、影響がいろいろ大きいと思うんです。そういうことについてどう考えているのかな、ということをお聞きしたいのと、またどこかに滞在して作品をつくりたいと思われますか。
小林
そうですね。やっぱり周りの環境が変わると面白いことがいっぱいあるなと思います。滞在した先々で見えるものも変わるので。でも「いつまでにこれを」と言われるとちょっと...。3年くらいくれたらできると思うんですけど、レジデンスだとどうしても短かったりするので、個人的に行ったりできるといいなと思ったりして。体調のことになるんですが、私は感覚過敏があったりして、環境の変化にすぐやられてしまうんです。それと制作をちゃんと持続可能に回していくみたいなことが課題でもあって。そこを探り探り、移動などもできたらいいなと思っています。
樋泉
では、そろそろ佐野さん、いかがですか?
佐野
じゃあ私から。知世ちゃんは、コウモリの声が聞こえるって言うんです。私はコウモリの声は聞いたことがないんですが、昨日だったかな?CAIでコウモリの声が聞こえたって。コウモリの声、聞いたことある方、この中にいらっしゃいます?(お一人が挙手)...あ、いるんだ!

小林
音をモティーフにしているので、川辺で聞いたいろんな音を描いていて、私にはコウモリの声が聞こえるんですが、周りの人に聞いても、そんなの聞こえないっていう人が多くて...。モスキート音みたいな、キーキーっていう声なんです。でも調べたら札幌にはコウモリがたくさん住んでいるそうなんです。
佐野
いつもそういう話をしながら、今まで自分が気づかなかったようなことに気づかせてくれるのがいいなと思っていました。
Gさん
いつからそれがコウモリの声だと認識していたんですか?
小林
大学時代、山形に4年間住んでいたんですけど、夜になると蛾より大きいバサバサした飛び方のものが飛んでいて、あれ何だろうって。地元の子がコウモリだよって教えてくれて、それがキーキー言っていたんです。札幌に戻ってからはあまり気にしていなかったんですが、去年の春まで東京に住んでいて戻って来た時に、夏の夜にま窓を開けていたらキーキー言ってるのが聞こえて、これは山形で聞いたコウモリの声だなと思って調べたら、札幌はコウモリの町です、と...。
樋泉
札幌市民にはあんまりその認識がないような気がしますね(笑)
小林
夏になると聞こえます。
樋泉
みんな聞こえないって言ってるけど、本当は声がしているのかもしれない、ということですよね。このコウモリのお話で、さきほど感覚過敏についても触れられていましたが、小林さんは小さな音とかちょっとした気配とかをすごく繊細に感じ取っているんだなとあらためて思いました。私なんかはふだん雑な生き方をしているんですが、小林さんがここに通って制作したお話をお聞きしてから、今日も駅からここまで歩いてくる道の中で、なんとなく音を聞いてみたり、湿度を感じてみたり、繊細な自分を発動しようとして...。
佐野
しますよね(笑)
樋泉
そうそう。お聞きしてみたいのは、小林さんは作品を制作するモードに入っている時に特にそうなるのか、それとも生活の中でいつもそういう状態にあるのかということです。
小林
波はあるんですが、わりと生活がいつもそうだと思います。やっぱり絵を描いていると感覚をすごく使うので、今日はこれくらい、というように自分のコンディションが結構わかって、そういう体調が絵にそのまま反映されるということはあります。
樋泉
感じすぎてしんどい、というようなこともある?
小林
そうですね、外に出られないとか、カーテンが開けられない、という日もあります。日によって違います。
Gさん
自分の持つ針が振れたこまやかな瞬間とか、微かなものを追っていると、よりそれが過敏になっていくことがあるじゃないですか。そうするとどんどん疲れていって、健康にも関わってくることがあると思うんですが、そこの折り合いをどうつけているのかなと。
小林
そこがいちばん難しくて、模索中ですね。本当に具合が悪くなってしまうと絵も描けないので、それができる働き方とか、感じすぎた時にどう対処するかとか、バリエーションをすごく探しています。「コーピング」というものがあるんですが、自分に何か起きたときに安心するためのルールみたいなものを決めておいて、それをやることでなんとかできる時もあります。難しいですよね。コーピング、よかったら調べてみてください。
Gさん
ありがとうございます。
樋泉
お話を伺って、小林さんが毎日生活をしているということと、表現するということはやっぱり地続きなんだなと。暮らすということと制作するということがあまり分かれていない、という感想を持ちました。
それでは、小林さん、みなさん、今日はありがとうございました。このあとも19時までお時間がありますので、ごゆっくりお過ごしください。


(編集:樋泉綾子)
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